発達障害 みんなのストーリー
「発達障害と共に生きるのも楽しい」
「自分はこれでいいんだ」
と思える人が増えることを願って
当事者インタビュー(ADHD、ASD)
~広野ゆいさん(40代・女性)~

プロフィール:
- 年齢:40代
- 職業:
- 特性に気づいた時期:20代
- 病院を受診した時期:20代後半
- 診断された時期:30代前半
- 診断名:ADHD、ASD
主な特性:
- 持ち物の管理や整理整頓が苦手
- 時間配分が分からず遅刻することがある
- スケジュール管理が苦手
- 物事を進めるペースにこだわりがある
- 物事の見え方、感じ方に独自の視点がある
本文中に使用されている専門用語(アンダーラインのついたもの)については発達障害関連ワード集に詳しく説明があります。
幼少期~20代前半を振り返って

片づけたいのに片づけられない。なぜ皆がちゃんとできるのかが分からない
小学生の頃は持ち物の管理ができず、私の机の周りだけ物があちこちに散らばっているような状況でした。それを見かねた友人に片付けてもらっていたら、先生から「お片付けができないお姫様のようですね」と言われたこともありました。私としては「ちゃんとやりたい」と思っていたのですが、通知表にも「整理整頓ができない」 「人の話をよく聞かない」 「忘れ物が多い」と毎回書かれてしまい、なぜ皆はちゃんとできるのか全然分かりませんでした。
その一方で、学校では作文や絵などで表彰されることもありました。それはそれで嬉しくはあったのですが、「どうして皆と一緒にできないの?」と注意されたり、意味も分からず怒られたりすることの方が圧倒的に多かったので、「たまに表彰される」という経験はあまり自分の自信にはつながらなかったように思います。また、「友達と遊ぶ」という意味がよく分からず、遊ぶ約束をしても集合場所に行かなかったり、友達との会話の中で遊ぶ約束をしていたこと自体を把握できていなかったりすることもよくありました。
本を読むのが好きだった私は、当時流行っていた『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子/1981)という本の中で、いつも叱られてばかりのトットちゃんに自分の姿を重ねていました。「トットちゃんみたいに小学校を退学になっていないから、私のほうがまだましかな。それでもトットちゃんは『きみは、本当は、いい子なんだよ』と言われている。トットちゃんがいい子なら私だっていい子だろう」と思ったことを覚えています。
遅刻ばかりの高校時代。何とか大学を卒業し働き始めたものの、1年で退職
高校生の頃は時間の配分が分からず、担任の先生に「遅刻の帝王」と呼ばれるほど遅刻が日常化していました。朝はなかなか起きられず、起きたらお昼だったり、ひどい時には一日中寝ていたりといった状態で、今思えば、うつの症状が出ていたのかもしれません。高校卒業後に進学した大学では、友人の助けを借りて何とか卒業はしたものの、在学中は勉強も就職活動も、まともにすることができませんでした。
大学卒業後は、ゼミの先生の紹介で大学病院の秘書の仕事に就きました。「すごく頑張れば私にもできるかもしれない」と思い働き始めたのですが、半年ほど経つと時間どおりに出勤できない日が増えたり、通勤電車に乗っていられなくなったりして、仕事ができる状態ではなくなり、結局1年で退職しました。自分の管理もできない私が他の人のスケジュール管理をする秘書として働くことに、そもそも無理があったのだと思います。
発達障害に気づく

子どもの頃の生きづらさの原因はADHDだった
初めてADHD(注意欠如多動症)という病気のことを知ったのは、親戚の息子さんが発達障害と診断された時でした。当時、発達障害は全部をひとまとめにしてSLD(限局性学習症)と言われていた時代でしたので、大人の発達障害があること自体、あまり知られていませんでした。
ちょうどその頃、『のび太・ジャイアン症候群』(司馬理英子/1997)という本を読みました。その本は子どものADHDを取り上げたもので、「ADHDの子はちゃんと頑張っているし、できないことに悪気はなく、怠けているわけでもない。『頑張ってもうまくできない』ことを周囲が理解することが必要」ということが書かれていました。その本を読み、「私は子どもの時にADHDだったのだ!」と納得したのです。しかし、大人のADHDに関しては一切書かれていなかったので、今の自分が抱えている生きづらさをどうしたらよいのかという答えは見つけられずにいました。
28歳頃からうつ病の治療を始め、30歳を過ぎてADHDと診断
その後、『片づけられない女たち』(サリ・ソルデン/2000)という本を読んだ時に、大人の発達障害があることを知りました。それをきっかけに医療機関を探し始めたのですが、当時、大人の発達障害を診てくれる医療機関は北海道と東京にしかなく、家から通える医療機関を見つけることができませんでした。子どもの頃に診断を受けていれば大人になっても診てもらえるケースはあるのですが、当時は大人になって発達障害に気付いた人が受診できる医療機関は限られていたのです。
そこで最初の一歩として、インターネットの掲示版で見つけた大人のADHDの当事者グループの会に参加し、そこで紹介してもらった先生に診てもらうことになりました。しかしその先生からは、「うつの症状が改善してからでないとADHDの診断は難しい」と説明され、まずはうつの治療から始めていくことになりました。それが28歳頃のことです。その後、投薬治療などでうつの症状は改善しましたが、ADHDの特性による困りごとは改善されなかったため、ADHDの治療を受けることになりました。治療で症状が改善されたのは30歳を過ぎてからのことでした。
発達障害を受け入れる

当事者同士だから分かり合える、悩みや困りごとがある
私の場合、医療機関に行くよりも先に大人のADHDの当事者グループに参加し、“当事者からの共感”を得たことで気持ちがずいぶん楽になりました。これまで、生きづらさを抱えて落ち込んでばかりでしたが、当事者グループのメンバーに「頑張ってもできない」 「怠けていると言われるけれど、これ以上は頑張れない」 「なぜ怒られているのか分からない」 「やってもやっても片付かない」という話をした時に、「分かる、分かる」と共感してもらえて、心の底からホッとし、気持ちが明るくなりました。
もし、様々な悩みや困りごとを抱えて医療機関に行き、そこで「発達障害ではない」と診断されていたとしたら、「原因は自分にあるんだ」 「できない自分がダメなんだ」 「もっと努力しなければいけないんだ」と、今以上に自分自身を追い詰めてしまっていたかもしれません。
ただ、発達障害と診断されてもされなくても、時には死にたくなってしまうほどつらい状況にあることに違いはありません。医療機関では診断を重視しがちですが、まずはこのつらい気持ちを医療関係者に受け止めてほしいと感じます。
発達障害のある自分を受け入れ、自分なりの生き方を見つけていくこと
そもそも「発達障害の診断を受け入れること」と「発達障害のある自分を受け入ること」は、全く異なると思います。発達障害と診断された後、抱えている困りごとは環境調整や薬物治療を行うことである程度、落ち着いてくるのですが、その一方で「発達障害である自分は、これからどうやって生きていけばいいのか」という現実に直面します。
そこで、「普通の人のように生きていこう」と決めて、無理に頑張り続けても疲れてしまいます。たとえ診断を受け入れ、あたかも“普通の人”のように振舞ったとしても、できないことはできないままで、何も変わらないのです。ですから、「できないこともあるけれど、自分はこれでいいんだ」という方向に気持ちを向けて、自分なりの生き方を見つけていくことこそが、本当の意味での“受け入れる”なのではないでしょうか。
大人のADHDのセルフヘルプグループの立ち上げが、病気を受け入れる大きな一歩に
私にとって、大人のADHDのセルフヘルプグループ(自助グループ)『発達障害をもつ大人の会(NPO法人DDAC)』を立ち上げたことが、ADHDを受け入れる大きな一歩になりました。また、セルフヘルプグループ支援センターを通じて、別の障害や難病のある方のグループのリーダーの皆さんのお話を聞く機会が増えたことで、「周りに負担をかけるから障害はない方がいい」という私の思い込みが払拭され、「発達障害でもいいか」と思える道が拓けたように感じます。
私はもともと人付き合いが上手な方ではありませんが、今は多くの発達障害の仲間がいます。同じ特性があることですぐに仲良くなれるので、全国に当事者グループの知り合いができました。それから、発達障害について講演する機会も増えてきたことで、以前よりも理解してもらえるようになりました。そうした経験から、私は今、「無理に“普通の人”になろうとしなくても、自分らしく生きていく方法はある」 「発達障害があるからこそ社会で役に立てることがある」と思えるようになっています。
一人で悩みを抱えず、仲間と語り合える場へ
大人の発達障害では就労の問題が最も多いのですが、その他にも子育てに関する悩みや、40代、50代になって発達障害と診断された方の介護に関する悩みも増えているようです。そうした状況の中、誰にも相談できず、自分を責めたり、落ち込んだりしてしまうことは少なくないと思います。

当事者グループは、発達障害に関わる悩みをはじめ、生活に役立つスキルや様々な情報を共有することを目的に活動しています。かつての私がそうであったように、当事者グループに参加して仲間と語り合うことで安心感を得て、ぜひ前向きな気持ちになっていただけたらと思います。
発達障害と共に歩む

日常生活では、発達障害の特性に合わせて工夫し、「頑張り過ぎない」を大切に
私は現在も月1回の通院を継続しており、発達障害の治療をしながら、地域若者サポートステーションでキャリアカウンセラーとして就労支援をしたり、DDACの活動に携わったりしています。
日常生活の中では、おそらく私の物事を進めるペースや見え方、感じ方などのすべてが独特だと思います。例えば、家の中で私がしていることを家族が急に手伝ったりすると混乱してしまうことがあるので、そういうときには家族は決して手を貸さず、私のやり方を尊重してくれます。また、私には「こうじゃないとできない」といったこだわりが多くあるため、人と一緒に何かをする時にはお互いのやり方をすり合わせていく必要がありますが、私にはそれが難しく、うまく対処できるようになってきたのは40代になってからです。
ほかにも、発達障害の特性に合わせて自分なりに工夫していることとして、スケジュールにはちょっと遅れても間に合うように、30分前の時間を記入するようにしています。また、日常的に頑張り過ぎないことも大切なので、「少しくらいなら、なんとかなるかな」と思えるように、前もって環境調整をしたり、周りの人の理解が得られるよう準備をしたりすることを心がけています。
発達障害の有無にかかわらず、困っている人が助けてもらえる社会へ
DDACでは、参加にあたって発達障害の診断の有無は問いません。これは「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」というニューロダイバーシティ(Neurodiversity:神経多様性)との考え方に近いものを重視しています。
またDDACのメンバーは、自分たちのことを「発達凸凹(でこぼこ)」と呼んでいます。「誰にでも発達の凸凹があって、それがちょっと他の人より凸凹の程度が大きいだけ」というのが発達障害のイメージで、凸凹の程度が大きくなると不適応を起こし障害状態に至るという考えです。ここでは、「どこからを障害と呼ぶのか」 「障害者であるか否か」といった線引きは重要ではありません。重要なのは、「どうすれば発達の凸凹がある人の生きづらさを減らせるか」であって、発達の凸凹があってもうまく生きていく方法を見出し、支援することだと思っています。
ところが、発達障害のある人が公的な支援を受けるためには、障害認定が必要というのが現実です。障害認定の有無にかかわらず、困っている人が助けてもらえる社会であってほしいと思います。今後、ニューロダイバーシティが推進されていく中で、そうした社会にシフトしていく流れがもっと出てくることを期待しています。
発達の凸凹があっても、社会の中で自分らしく生きられるように
発達障害はわかりにくい障害で、発達の凸凹が目立っていても社会で活躍している人がいる一方、凸凹が目立たないにもかかわらず生きづらさを感じている人もいます。また、過去のトラウマや家庭環境などによって凸凹の現れ方は人によってまったく異なります。そのため、発達の凸凹だけを見てその人を判断するのではなく、様々な見方でその人全体を捉え、社会の中でその人らしく生きられるように、もっと柔軟なサポートが受けられる制度があればと思います。
今、私自身は「発達障害と共に生きることが楽しい」 「ADHDでよかった」と感じています。発達障害があっても、それぞれが「自分はこれでいいんだ」と思えるようになれば、世の中も変わっていくのではないでしょうか。そうした人たちが社会に受け入れられ、しっかりしたとサポートを受けられる環境になることを心から願っています。